メメント・モリ

コーヒーに入れると、まろやかになるでしょ。

咲くより散るよりも

ものすごい勢いで開国した。
ツアーをした。チケットは取れない。
CDを出した。ものすごい売れる。
連日開国記念日かのように地上波でお祭りが開催されている。
その結果観光客がたくさん来た。その中にはそのまま定住を決める人もたくさんいる。
王様と王子様は勢力を持ったまま、今日もありとあらゆるメディアを巡業して、変わらない笑顔を見せる。


もちろんわたしもその中にいた。
もちろんわたしもその開国は本当に嬉しくて、もちろんお祝いもたくさんした。
もちろんツアーに行き、もちろんCDも買った。
それはもちろん彼らが好きだからであって、もちろんそれは今も変わらない、変わることなんてない。


それでも、ふと我に返る。
「もちろん」とは何なのか。


彼らに対して「もちろん」でいることは私のステータスのようなものになっている気が、する。
完全にアイデンティティだ。だって、残念ながら、恥ずかしながら、それしかないのだ。
それしかないのに、そこにすがるしかないわたしなのに、その「もちろん」に少し、疲れてしまった。


彼らは毎日がきっと初めてのことばかりで、戸惑いながらも現状に喰らいつこうと頑張っている(ように見える)。
そんな風に加速する彼らのすぐ後ろについて走っていたわたしは、そうすることは「もちろん」のことだと思っていたし、大前提としてそうしたかったからそうしていたわけだ。


でも、わたしは今きちんと走れているのか。


きっととっくに上手には走れていないし、すぐ後ろについて走っていたようで実際は数周回遅れだったのかもしれない。
そんなことにも気づかないで、いや、気づいていた、気づかないふりをして、今の彼らから振り落とされないように、必死に形だけでもついていこうとしている今のわたしは、実に滑稽で、痛々しくて、気づけば自分でももう見ていられない姿になっていた。

好きだから?そうしたいから?
もう、それは惰性ではないのか。



たくさんの芸人やタレントの中で「うち一人」になってかしこまっている彼も、笑わないといけない状況というものに順応して徹している彼も、過去について話す彼も彼も彼も…。

心が拒絶する。
自分がこの目で見てその都度感じてきたことだけがすべてで、わたしの中に存在する彼らがすべてで、それは決して揺るがないはずなのに、色々な部分でそれは違う、本当はこうだった、あの時本当は、なんていうナイフで、彼らを取り巻く環境がそれら全てを一突きにしてくれる。

わたしはただわたし自身が決めた「もちろん」に縛られていることが問題で、それは分かっているのに、それでも絆創膏を貼って、走ることを辞めないのは何故なのかといったら、それはやっぱり「もちろん」でしかないんだろうなあと思う。


疲れたら歩けばいいし、各地でたくさん用意されている給水所のお水を毎回飲む必要もない。分かっているのにそれが出来ないでいるから、足はもつれるし身体は重くなる。その疲労感が、新しいものを受け入れなくさせる。



正しい終わり方は誰も知らないし、本当はそんなものないのかもしれない。
でももしその日が来たとしたら、私自身は不格好でも卑怯でもいい、どう繕っても愛を捨てるのだから。
それでも、それまで過ごしてきたその人との思い出だけはきれいに残して、枯れていきたい。