メメント・モリ

コーヒーに入れると、まろやかになるでしょ。

やさしいひと

「人間として優しい人にならないといけないと思っていて。そうじゃないと、美しくないし、悲しいじゃないですか。」
with 2020年 2月号より


忘れ物の癖を指摘された佐藤龍我くんが「それは秘密!」と言いながらその日も現場に私物のポーチを忘れていったらしい(ペロすぎ)その雑誌記事にて、岩崎大昇くんはこんなことを言っていた。





わたしは優しくなりたかった。


「もっとずなくならないとやっていけないよ!」


数年前、毎日泣いていた(ガチ)(迷惑すぎ)わたしに所謂お局がこう言った。

社会人になってから、それまでポヤと生きてきたはずのわたしは何故かブチ切れマシーンとなってしまっていた。今思えば、最大級の実にありがたい助言である。その通り過ぎる。けれど、たくさんの理不尽にわたしは怒っていた。

その時はじゃあこの環境を何とかしろやと心の中は常に大噴火で避難警報が出ていたし、そんな自分を自分で立ち入り禁止区域に放り込み、誰も寄せ付けないことでなんとか日常を保っていた気がする。

まず「ずない」ってなにと思った。聞いたら「図太い」という意味らしかった。
は~~~?????標準語を使えや!!!(?)とそこでまたブチ切れたし、本当に、そんな些細なことで毎日毎時間毎分毎秒わたしは怒っていた。


けれど同時に、ひとしきり怒り狂った後はものすごくしにたくなった。どうしてもっと穏やかにニコニコと平和に生きられないんだろうと何度も自分を心の中で刺した。

それでも生きていくしかないので、心の中で解体した自分をまた積み木のように積み上げて意地という名の針と糸でそれらをつなぎ合わせて、毎日を過ごした。

優しくなりたい。心穏やかに生きたい。
そのためには強くなろう、もっともっと強くなろう。
そうすれば、そうやって強くなればこころに余裕が出来る、穏やかになれる、きっと、優しくなれる。


そうして何度も針と糸で再形成されたわたしは無事強くなった。けれど、いちばん欲しかった優しさはついてこなかった。
怒りと当てつけのような気持ちを原動力にしていたのだから、当然の結果だった。


「前はこんなじゃなかったのに、すぐ怒ってしまいます。どうしたらいいでしょうか?」

「『前はこんなじゃなかった』はずはなく、貴方は本来そういう性質だったというだけではないでしょうか。」


行きつく場所がなく、ヤ〇ー知恵袋(笑)に相談(笑)(笑)したわたしはその回答に思わず笑ってしまった。そして、どこの誰かも知らない根拠もないその回答に妙に納得してしまった。


それならばもう、無理じゃないか。

そうしてわたしはお礼のたった500コインを代償として、なりたかったわたしになることを諦めた。守りたいものなんて何もないのに、外壁ばかりが頑丈となったわたしは、今も立ち入り禁止区域の看板を下げられずにいる。




優しくないと、美しくない。
優しくないと、悲しい。
そうじゃないと、優しくないと、美しくないし、悲しいじゃないですか。


弱冠17歳の彼から発せられたそんな言葉を浴びて、わたしは何を言うことも出来なかった。

その当時、わたしはきっと怖くて、悲しかったのだ。
制御できない怒りに包まれている自分が。この怒りが誰かを傷つけているかもしれないと思うことが。その傷ついたかもしれないひとを、わたしが悲しい気持ちにさせてしまったんじゃないかと、そしてそこから、逃げていた自分が。


本当はちっとも強くなんてなってないのかもしれない。涙という形できちんと出ていたのに、悲しい から目をそらすために、虚勢を張ることで強くなった気でいたのかもしれない。
優しいということは、強いということは、悲しいを受け入れることなのかもしれない。


真意は分からないけれど、何気なく出た言葉なのかもしれないけれど、長年自分を苦しめてきた自分自身を諦めたくないような気がしてきた。大げさかもしれないけれど、それでも、これからどうやって生きていくべきかを教えてもらえたような気がした。
だって、だってそうじゃないと、美しくないし、悲しいじゃないですか。



この記事内で、大昇くんは他にも以下のようなことを言っていた。

人生が80年だとしたら、子供でいられるのは4分の1しかない。記憶に残っていないような幼少期を除くと、本当に短いんだよね。残りの人生は、全部大人。俺たちは今、いちばん短くて、いちばん濃い時間を生きているはずだから。ここを逃したら終わりだと思っているし、すべての瞬間を大切にしていきたいな

(現行法改正で将来的に成人年齢が引き下げられることを受けて)俺たちが20歳になる2022年には、18歳も成人扱いになっているんですよね。それを3年ぐらい前に知ってから、少し焦っちゃって。18歳の新成人たちよりも精神的に大人になっていないと、なんだか恥ずかしいでしょ


どうしてこんなに達観しているんだろう…?と考えたときに、わたしは思っていたよりも大昇くんのことを知らないんだなあと思った。

最初はクラJ(懐かしすぎて爆発)にいて、おじいちゃん子で、真っ白で、肩幅(すき)で、歌が本当に上手で、オシャレで(でもなんかいつも半袖)、後輩の面倒見がよくて…

MCでみんなが必死に「海」とか「陸」とかでぼやかしているのに「シーは…」とか「タワーオブテラーでさ」とか言っちゃったり…

いろいろな機会で前に出ることの多くなった彼だけれど、その理由はとっても良く分かるし、もしかしたら最大の要因はその観念や意識の高さ、そして、龍我くんも言うように「みんなを支える包容力」、その優しさにあるんじゃないかなと思った。



どこまでもどこへまでも高く大きく昇っていくんだろうな、そんな未来を感じさせてくれる。
優しくないことは悲しいことだということを知っている。
大昇くんは、強くて、優しい。そして、とっても美しい。



17歳。自分より遙かに若い貴方に縋るような大人は、
情けないと呆れられてしまうかもしれないけれど、
恥ずかしいと笑われてしまうかもしれないけれど、
わたしは大昇くんみたいになりたい。

そうして、今度こそ、優しくなりたい。

いちばんぼし

星。


彼がくるりと舞うたび、ぴょんと跳ねるたび、零れ落ちるものは星だった。

きらきら、ちかちか、まぶしくて見えないほどにそれをまき散らす、その中心でにっこりと笑う彼もまた、いや彼こそが、星だった。




はじめて彼を見たのは、2016年のジャニアイだった。

なんだかぽーっとしている子がいる…
双眼鏡の丸の中に飛び込んできた彼の印象は良いわけでも悪いわけでもなく、ただそれに尽きるものだった。

ぼーっと、ではなく、ぽーっと。

「よくわからないけれどここまできてしまいました、でもいっしょうけんめいがんばります(でもほんとうはよくわかりません)」

そんな感情が思わずにじみ出てしまっているような、いやでもそれにしては飄々としているような…
とにかく一目見ただけでは掴めない彼の、シースルーな前髪とすっと伸びたアビシニアンみたいな目がやけに脳裏に張り付いた。

みんなはワイワイとLGTEを歌いとっくに地球へ戻ってきているはずなのに、わたしだけ宇宙へ取り残されているような、そんな感覚だった。

その不思議な感覚はわたしに「ステフォ1枚ください」という言葉を発させていた。

(まあこれは参考資料だから)
そんないつも通りの訳の分からない言い訳を胸に、帝国劇場を後にした、2016年の冬。


そこから約3年、2019年の今現在に至るまで、彼を取り巻く環境は何かとせわしなかった。
まだ首の座っていないピンク色の子が加入してくれて、彼は最年少ではなくなったし、その後グループ名は2回も変わった。

はじめてのドラマ出演は彼にとって小さくはない転機だったように思う。
それからしきりに「もっと演技の仕事をしてみたい」という彼にとって、それは本当に貴重で大切な経験になったんだろうなあと思うたびに、自分のことのように嬉しかった。


この年になって本当に実感するけれど、自分がやりたいと思うことをきちんと見つけられる人は人として強いと思う。その意欲がその人に努力をさせるし、経験を呼ぶし、世界を広げる。それが思うようにいかなかったとしても、誰も責めることは出来ないしその行為自体が自分と自分との対話なのだと思う。なぜなら、他の誰でもない「自分が」やりたいと思ったことだから。それがまた、その人を強くする、と思う。

そんな大それたことではないかもしれないけれど、希望を胸にそんなお話をする彼がまぶしくて可愛くて。
思えばその頃からだったのか、彼の周りをくるくる、きらきら、取り囲むように舞う星が見えるような気がした。


ステージの上に立つ彼は数年前のジャニアイの時とは全く違い、しっかりと地に足をつけて立っていた。
地上から3ミリは浮いているような気がしたその身体は、彼の意志をもってきちんとそこに存在し、そしてやはり星をまき散らしていた。

パフォーマンスでは必要以上に笑顔を見せることはない印象だけれど、メンバーと目があった時、お客さんに向けてファンサをする時、その瞬間ごとに、切れ長の目をふにゃ、と緩ませて笑う彼。

そうやって笑う彼はマシュマロだった。子うさぎだった。キティちゃんだった。

世の中のありとあらゆる「かわいい」を形用するすべてのものに成り代われるような、そんな永遠を感じた。

そうやってふにゃふにゃと笑う度に、わたしの体内のどこかに存在するかわいさという概念の首根っこをぺろりと舐められているようだった。かと思えば消えない歯形を付けられているような、そんな感覚だった。
よくホテルのブッフェなんかに置かれているチョコレートファウンテン、彼のかわいさに触れるたび、わたしの脳みそは完全にそれだった(突然のスプラッタ)


わたしは基本的に「かわいい」人、「かわいい」を備えている人が好きで、
中でも彼のそれはとても知念侑李くんに似ているな、と思った。

ただ、本人の中の「かわいい」の捉え方はきっと180度違う。
似ているのは、こちら側に与える「かわいさ」の圧だ。


わたしの好きなひと、神宮寺勇太くんを比較対象として例に挙げる。

神宮寺くんの「かわいい」は本当にじんわりと、優しく、五臓六腑に染みわたるものだと思う。
(なに言ってるのか分からないと思うけれどわたしにだって分からないのでしばしお付き合いください)

愛用のねんねも、時にバブ返りすることも、「仲良しじゃないょ、だいちんゆう」も、時に見せるかわいいかわいいじんぐうじゆうたくん(4さい・ぞうさん組)なお顔も、全てが優しくてほんのり甘くて、その圧は圧と呼ぶに値しないくらいにゆるやかなものだ。

「神宮寺くんってばもう!!本当にかわいいんだから~~~~!!!!(大声)(メガホン使用)」

そんなことを叫びたくなるこころの余裕がわたしにあるくらい、神宮寺くんの「かわいい」はブラックコーヒーにいれる角砂糖ひとつぶん、そんなほんのりしたものだ。(神宮寺くんはブラックコーヒー飲めるもんね角砂糖なんていらないもんねごめんね)



知念くんそして彼の「かわいさ」は、そういう優しくて穏やかなものではない、気がしている。

一言で言うなれば「怖い」のだ。


かわいい。かわいい。ただひたすらにかわいい。それに尽きる。
そうやって「かわいい」に埋もれていることは一見幸福のようだが、問題なのはそれが底なしだというところだ。

潜ってもかわいい、底に足をつけたくてもかわいい、息が苦しくて水面に顔を出したいのにかわいい…なんということでしょう(知らんがな)そうして溺れた先にあるものもやはり「かわいい」なのだ。

ここまで行くともう、「かわいいはもう、あの、もうじゅうぶんです!!」となるし、早く息を吸わないとしんでしまう、そう思うのに、彼らの「かわいい」は容赦なく「かわいい」のわんこそばの替え玉を持ってにこにこしているのである。

怖い。どこまでいってもかわいい。怖い。彼らの「かわいい」にはあくまで「かわいい」を根底に秘めた暴力性が伴うのだ。

ひいて言えば、彼に関しては「かわいい」でわたしを海に沈め、さらには振りまくその星でわたしを地に埋め、容赦のない「かわいさ」を星に乗せてわたしを空まで飛ばしてくれる。


そこまで来るともう、「怖い」「暴力性」なんていう物騒な言葉を使ってしまった「かわいい」も、たちまち「すき」になってしまうのだ。単純明快な脳みそはみるみるうちに溶けてチョコレートファウンテンに流され、思うがままにその循環機能をフル回転させた。そうして、遠くで星を零すマシュマロをただただ眺めさせた。

どうかマシュマロが、この澱んだ濁流のようなチョコレートに触れることがありませんようにと切に願った。



そして今年の春、平成から令和へと時代が切り替わるその一週間、わたしはシアタークリエの赤い座席に格納されていた。

そこで目にした彼もやっぱり、例に漏れず、もう、ただかわいかった。

あまりにも匂わせが過ぎるので大体の人は何となく想像できていたんじゃないかと思う彼のソロは、メンバーに助言を貰いながら、とにかくオシャレにこだわりたくて、そういった自分だけの世界を作りたいと思って選んだそう。

はじめてのソロ。彼だけではなくて、メンバー皆がそれぞれに思い思いの自分を込めて、こだわりを詰めて、きっと大切に準備してきたであろうことが、ひしひしと伝わってきた。

ステッキを持ちサスペンダーと蝶ネクタイでしゅっと決めた彼は、甘くて澄んだ声を歌に乗せ、ステッキをくるくるしたと思えば、かなり序盤から光らせていた汗をきらきらさせながら、「キャラメル」や「ポップコーン」、発しただけでもう糖分過多な言葉を声に乗せてそこに存在していた。


くるくる、きらきら。


あ~~~またこの瞬間がきてしまった、と身構えるも、ペンラ1本握りしめただけの軽装備なわたしにこの空間はあまりにも甘く、そしてあまりにも、かわいすぎた。土石流だった。ようやく七夕を終えてあとは静かに流れるだけで1年を過ごす予定であっただろう天の川に土石流の如く星を降らせ、あっという間に氾濫した。


こんなにかわいくてあまくてかわいくて、こんなことがあっていいの。


一生懸命考えて、きっと試行錯誤して、そうして作り上げた彼だけの世界。
それがありがたくも、あくまでわたし個人だけにとっての嗜好と合致したこともそうだけれど、彼が、自分自身で「こういうものがやりたい」と選んでそれを見せてくれたことが何より嬉しかった。





翌日。

わたしは浅草で呑気にタピオカを吸っていた。

不穏な空気が流れていた。嫌な予感がした。




そのまた翌日。

嫌な予感というのはどうしてこうも的中してしまうのか。

彼のソロはオールカットされていた。



カット対象となったオシャレでかわいいソロ曲の代わりに追加されていたのは、ソロのダンスステージだった。

汗で濡れたパーマの少し残った髪をかきあげ、ワイシャツ1枚を纏っただけの上半身はあっという間に彼自身によって露わにされてしまった。袖を丁寧にくるくると巻き上げたかと思えば、ふう、と息を吐いてまた、髪をかき上げた。
(なんか官能小説を書いている気持ちになってきて大丈夫ですかねこれ申し訳ございません)


「かわいい」はもう、そこには存在しなかった。
「キャラメル」も「ポップコーン」も、なかった。

それでも諦めきれず、脳内に「キャラメルとポップコーンはありますか?」と問いかけるも「そこになければないですね」と返答が返ってくるだけだった。ダイ〇ーだった。
でも、それが事実なのだ。わたしの脳内のダイ〇ーは「そこになければ、」と自分自身に対して目で見て確かめろそれが事実だという断言とも取れる判断をこちらに委ねてきたが、こちとらもうこの数分間彼しか見てないのである。そんなことはもうとっくに分かってしまっていた。


でも。

「かわいい」を完全排除したステージに立った「かわいい」彼は、「かわいい」に置いてかれてしまった迷子の「彼」なんかではなかった。いわゆる「かっこよさ」や「セクシー」さ、長身と白い肌を生かした系統の違う「おしゃれ」さを纏って、彼はそこに立っていた。


きっと彼は、ずっとそうだった。


きっとわたしは、彼は「かわいい」いつまでも「かわいい」、「かわいい」は彼にずっとついて回るもの、そんな勝手なイメージとただの願望を型にはめてでしか彼を見ていなかったのだと気づかされた。

切れ長のクールな目はこんな雰囲気にこそ映えると思った。すらりと伸びた手で指揮者のような動きをする彼にはパガニーニが似合う、と思う位には耽美的だった。

「かわいい」がすきで、「かわいい」の居心地がよくて、それならばずっと「かわいい」でいてほしくて。
そんなわたしには気づけなかった、気づこうとしなかった彼がそこにいた。


こんなにもかっこよくて、こんなにもうつくしくて、きっと彼は、ずっと、そうだったんだ。



もうなんだかそこからは早かった。
彼の「かっこいい」を認識した途端に、もうとてつもなくどうしようもなくかっこよくみえて、いつどこの誰としたのか思い出せない初恋と似たものを感じた。

簡潔に言うと照れた。(笑)
かっこよすぎて恥ずかしくてもう仕方なかった。(思春期か?)
しかも、かっこいいだけじゃなかった。かっこいいの片隅にチラつく妖艶さは見て見ぬふりができなかった。しっとりとした仕草からはその容姿も相まって嫋やかさすら感じた。


能天気に星に埋もれていたわたしに降り掛かってきたこの理不尽は、結果としてわたしに最大級の革命を引き起こさせてくれた。

そして、それは後に知ることになったその経緯を見る限り、そしてそれが「すごく自信になった」と言う彼にとっても、そうであったのではないかな、と思う。

「かわいいよりかっこいいをやったほうがいいよ」
「男っぽいところを見せたほうがいいよ」

そんな助言が今回の事の発端となったそうだけれど、やっぱり事情も何もしらない一生受け身側のわたしとしては、(やっぱり彼がやりたいと思ったものをやって欲しかったはじめてのソロでどんな気持ちで準備してきたんだろうと勝手にその気持ちを推し量って勝手に悲しくなった完全版が見れたのが初日のたったの1公演なんて悔しすぎたあの透き通った美声を一切発させないなんてそんなことある?うえ~~~~~んみたいな)色々な恨みつらみを覚えてしまったのは事実であって…。

けれど、それでいて、「アドバイスを貰えるなんて幸せなこと」、だなんて言えるのは、素直に丁寧に努力を積み重ねることの出来る彼の優しさや強さそのものだなと思った。

例え「かわいい」も「かっこいい」も、何もかもを無くしてみたとしても、彼のそういうところがわたしはすきで、だいすきだと思った。



そして、「かわいい」でソートを掛けて絞り込んだ彼しか見れなかったわたしに対して、「かわいい」をまるごと排除することで、「かわいいだけじゃないんだよ」「もっとすごいんだよ」と、新たな彼の世界や彼自身を発見させてくれたおじいちゃんはやっぱりすごいなあと思ったし、すべてが彼の可能性にかけた未来への投資だったのだとしたら…こんなに愛に満ちた人はいないなと思った。おじいちゃんの行ってしまった13月がとてつもなく遠くても、どれだけ離れていたとしても、絶対絶対一緒にオリンピックを見ようね。



かわいくてかっこよくてうつくしくてセクシーで、既にこんなに兼ね備えている彼はこれからもっとどれだけ大きくなって、どれだけいろいろな世界を見せてくれるんだろう。



これから来る夏、そして巡る季節とともに移り替わるであろう彼のことをこれからもどうか見続けていられますようにと願った。

そして彼がなりたいと思うもの、欲しいと思うもの、やりたいと思うもののすべてが叶う、そんな幸福の元にあり続けますようにと切に願った。




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彼がまた、ふにゃ、と笑った。金平糖みたいな星がひとつ、ころんと落ちた。

咲くより散るよりも

ものすごい勢いで開国した。
ツアーをした。チケットは取れない。
CDを出した。ものすごい売れる。
連日開国記念日かのように地上波でお祭りが開催されている。
その結果観光客がたくさん来た。その中にはそのまま定住を決める人もたくさんいる。
王様と王子様は勢力を持ったまま、今日もありとあらゆるメディアを巡業して、変わらない笑顔を見せる。


もちろんわたしもその中にいた。
もちろんわたしもその開国は本当に嬉しくて、もちろんお祝いもたくさんした。
もちろんツアーに行き、もちろんCDも買った。
それはもちろん彼らが好きだからであって、もちろんそれは今も変わらない、変わることなんてない。


それでも、ふと我に返る。
「もちろん」とは何なのか。


彼らに対して「もちろん」でいることは私のステータスのようなものになっている気が、する。
完全にアイデンティティだ。だって、残念ながら、恥ずかしながら、それしかないのだ。
それしかないのに、そこにすがるしかないわたしなのに、その「もちろん」に少し、疲れてしまった。


彼らは毎日がきっと初めてのことばかりで、戸惑いながらも現状に喰らいつこうと頑張っている(ように見える)。
そんな風に加速する彼らのすぐ後ろについて走っていたわたしは、そうすることは「もちろん」のことだと思っていたし、大前提としてそうしたかったからそうしていたわけだ。


でも、わたしは今きちんと走れているのか。


きっととっくに上手には走れていないし、すぐ後ろについて走っていたようで実際は数周回遅れだったのかもしれない。
そんなことにも気づかないで、いや、気づいていた、気づかないふりをして、今の彼らから振り落とされないように、必死に形だけでもついていこうとしている今のわたしは、実に滑稽で、痛々しくて、気づけば自分でももう見ていられない姿になっていた。

好きだから?そうしたいから?
もう、それは惰性ではないのか。



たくさんの芸人やタレントの中で「うち一人」になってかしこまっている彼も、笑わないといけない状況というものに順応して徹している彼も、過去について話す彼も彼も彼も…。

心が拒絶する。
自分がこの目で見てその都度感じてきたことだけがすべてで、わたしの中に存在する彼らがすべてで、それは決して揺るがないはずなのに、色々な部分でそれは違う、本当はこうだった、あの時本当は、なんていうナイフで、彼らを取り巻く環境がそれら全てを一突きにしてくれる。

わたしはただわたし自身が決めた「もちろん」に縛られていることが問題で、それは分かっているのに、それでも絆創膏を貼って、走ることを辞めないのは何故なのかといったら、それはやっぱり「もちろん」でしかないんだろうなあと思う。


疲れたら歩けばいいし、各地でたくさん用意されている給水所のお水を毎回飲む必要もない。分かっているのにそれが出来ないでいるから、足はもつれるし身体は重くなる。その疲労感が、新しいものを受け入れなくさせる。



正しい終わり方は誰も知らないし、本当はそんなものないのかもしれない。
でももしその日が来たとしたら、私自身は不格好でも卑怯でもいい、どう繕っても愛を捨てるのだから。
それでも、それまで過ごしてきたその人との思い出だけはきれいに残して、枯れていきたい。

最強で最高の才能で最速で最新の最前線へ

目にかかる少し長い前髪が好きだった。
ほっぺたに縦ふたつ、きれいに並ぶほくろが好きだった。
それだけだったのに。





いつも通りの午後、いつも通りの憂鬱、いつも通りのデスクで、いつも通りに定時までの時間をカウントダウンしながら、いつも通りぬるいコーヒーを飲んで、いつも通りの定型文で0120~…からの営業をお断りして、いつも通りtwitterを最小限にして開いていた2018年1月17日。

連日続いていた快晴なんて無かったかのような雨、それだけがいつもと違った2018年1月17日。

一生忘れたくないと思う2018年1月17日。



2018年1月15日、「特別番組エキストラ」と題して番協が募られたあの日も、私はただ能天気に良く分からない会議に出席して、ぬるいコーヒーが更に冷めてしまうことをぼんやりと気にかけていた。

この「特別番組」も「いつも通り」なのだろうとたかをくくっていた。心配しなくともまあそうなんだろうな、と思えてしまう程に停滞したJr界隈にうんざりしていた、わけではなくて、ただただ「いつも通り」に慣らされていた。

きっとまた祭りのお知らせなんだろうな、また遠征したいから城ホでもやってほしいなあ、なんて、私の春からの虚しいすかすかのスケジュールを埋めてくれるジャニーズ事務所には感謝すらしたかったし、ある一定ラインからは決して越えてこないにしても、期待もしていた。


それなのに。


そういえば、と何気なくtwitterを開いてみた2018年1月17日の午後、一瞬ではとても理解できない言葉がTLに並んでいた。

急いでトイレに駆け込んで震える手と霞む目でスマホを一生懸命スクロールした。嘘だと思った。嘘じゃないとも思った。神様!と思った。訳が分からないのに、涙だけが出て、すぐさまオタクに電話をかけた(仕事中にまじすみませんでしたほんと)

うれしいね、うれしいねと言った。本当にうれしいのかも、良くわからないのに、こみあげてくるこの感情はきっとうれしいなんだろうなあ、と思って、悲鳴みたいな声でただただ、それを繰り返した。







Mr.King vs Mr.Princeが好きだった。


ディズニーからはミキミニドナデジ、サンリオからはキティちゃんにマイメロ、みたいに人気者を集めました!はいどうぞ!的な感じで無理やり組まされた感のある6人、そんな6人がアウェイな東京ドームの芝の上で、がちがちに緊張した面持ちで「キング!プリンス!キング!プリンス!」と歌う姿を見て、(これははじまってしまった…)と思ったのをよく、よく覚えている。


夏の六本木。うだるような暑さの中、フロアにしきつめられたオタクを前に立つ6人は蜃気楼みたいだった。

6人が一列横並びになるあの瞬間が、強さを誇示されるようなあの瞬間が好きで好きでたまらなくて、そんな中できちんとMr.King vs Mr.Princeのひとりとして、神宮寺勇太という個として、堂々とステージに立つ神宮寺くんが好きだった。5人の隣にいる神宮寺くんが好きだった。

寄せ集めかと思えた6人がきちんとグループとして確立していく様が好きだった。勝つWINの冒頭6人が肩に手を置きあう瞬間、ここが世界で一番っょぃ場所だと思った。MCが面白すぎて、JUMPのゅるふぁMCに身体を馴らされてきた私には革命でしかなかった。どんどん場をかき回すきしひらに最年少ぽやぽやかいちゃんがたまにぶっこんで、この時はまだあまり喋れなかったけれどいるだけでかわいい岩橋くん(なのにBLがどうとかいう爆弾をぶっこむ)、その全てをまとめるじぐれん。オシャレ魔女ラブandベリームシキングの夏。

牙をむく6人のライオンに、素直に狩られにいくハイエナのようにひたすら六本木に吸い寄せられていった、あの夏。


それなのに。






Princeが好きだった。

私の大好きだったMr.King vs Mr.Princeは本当に真夏の蜃気楼だったようで、一瞬にして消えてしまった。

気づいたら神宮寺くんはPrinceとしてそこにいた。
神宮寺くんが「Princeの神宮寺勇太です」というたびに、PrinceがMr.に置いて行かれてしまった子ヤギのようで、あの夏を忘れられないが故にそう思ってしまう自分が嫌で、そんな自分がまるで、秋になったことに気づけずに、ひとりで木にしがみついて鳴いている蝉のようで、悲しくなった。


わたしはアイドルを、思い通りにならない現実を忘れさせてくれる薬のようなものだと思っていて。

そういう非現実を自ら求めて常日頃服用している薬であるからこそ、それによって悲しい想いや辛い気持ちにさせられるのはナンセンスでしかないと思っていて。
かっこいいだとかかわいいだとか好きだとか楽しいだとか、そういう陽の部分だけを体内に取り入れたいと思うのに、(私というただ個人にとって)上手くいかない、思うようにいかないこの世界は何だろうと思った。

それがジャニーズJrなのだということ、それがデビューしていないのだということ、アイドル、偶像であるのに彼らの生きている世界線は現実でしかないということ、ジャニーズJrを応援するということは現実と肩を並べて歩かないといけないのだということ…
きっとずっと昔からジャニーズJrという存在を応援している人には、常識じゃん何言ってんの新規乙と言われてしまいそうな事実を、やっと目の当たりにすることが出来た。



それでもPrinceの3人はしっかり前を向いていた。と思う。私にはあくまでもそういう風に見えた。
「ネガティブに受け止めていたら持たないから…この世界は」と神宮寺くんが言ったように、ずっと昔から活動してきて色々な現実に触れてきたであろう3人だからこそ、そうやって強くいられたのかな。分からないけれど。


Princeとして初めてもらったオリジナル曲の「Prince Princess」は、この世の慈しみをすべて集めて砂糖をまぶしてオーブンで焼きましたホットミルクと一緒にどうぞみたいな曲(???)で、誰に対しても優しくてあったかくて、この3人にぴったりだと思ったし、なによりこの曲を大切に思う3人が大好きだと、そんな3人のことが大好きだと言える自分が誇らしくもなった。



PrinceがPrinceとして活動した中で印象深いものとして挙げるならふたつあって。

紫耀くんが座長で梅田と博多を周ったジャニフワでは、胸ない芸を自分のものとしていきいきと披露する神宮寺くんは間違いなくナンバーワンでオンリーワンだったし絶対M1グランプリで優勝しようねと思った。

二人より台詞が少なくて悩んで、留学してしまおうかと悩んでいたという岩橋くんは、そんなこと感じさせないくらい私の目にはアイドルに映っていたから、あの時ふんばってくれて頑張ろうと思ってくれて本当にありがとうと思った。

岸くんからは舞台を愛して舞台から愛されて、演者からも愛されてブンブンチキブンブンアハで、東ジュからはもちろん関ジュからも、みんなが大好きになっちゃう岸くん!という像がひしひしと伝わってもう人間として大好きに思った。



そしてなにより2017年の夏、Prince3人が「Princeを運命だと思ったきっかけ」として挙げているあの夏。

「僕らとファンの皆で、一歩一歩、歩いて行こう。あの日、3人で誓った夢、それは、今ここから始まる」…

これがPrinceという色を明確に自信を持ってこちら側に提示してくれた公演だった。この夏が私の今までのオタク人生の中で一番楽しかった、何度でも行きたいと思える、まさに戻れるならあの夏へな毎日だった。

愛と優しさに溢れた恋を知らない君へも、覚悟を決めたような少年隊メドレーも、ひたすら楽しくてかっこいいLonely dancerも、祈るようにバルコを見上げたボニバタも、呼吸を止めないと嗚咽が漏れて大変だった…moreも、プリプリの大合唱もクワトロアンコも…
全部が全部嘘みたいに泣けて、後の舞台で「輝きのトライアングル」と称される3人が、本当にその通りだと思った。

PrinceがPrincessのみんな♡と呼びかけてくれる度に自らの体内に眠るPrincessな部分が産声を上げて、嬉しくて恥ずかしくて心地よくなった。
良くも悪くも、きっと宗教というものはこういうものなんだろうと思った。無条件ですがりたくなる信仰対象がいるということはこんなにも心強いものかと割と真面目に思った。


他にもクリエ(全内蔵を持っていかれたじぐいわの祈り)や祭り(FTG外周大運動会面白すぎて忘れない)、その後も夢アイ(WゆうたのAll I needしんどすぎ)や湾岸(雪白の月しんどすぎたのにおうちにいた。殺してほしい)や念願のプリンスホテル公演(神箱神キャパゆあまいぷりんせすで昇天)そしてハピアイ(絶対映像化して下さい2幕だけでも)…


確実に順調に、ジャニーズJrとしてPrinceとして、数々の現場をこなしてきた神宮寺くん。

「でも、絶対にPrinceでなきゃ、ってことではないんだよね」

そんなことを言っていた3人が、Princeで!この3人で!と言ってくれるようになったことが本当に嬉しくて!

Princeにこだわっていいんだな、好きと言っていいんだなと思うと同時に、あの夏の蜃気楼のように溶けたキンプリのように、例え離れ離れになってしまう日が来たとしても、なんとなく受け入れられる気がした。この3人で過ごしたこの期間を私だけが忘れずに、大切にし続けることで、この先ずっとずっと未来永劫生きていける気がした。


それなのに。









2018年1月17日。

初めて嬉しいと思える「それなのに」だった。
大好きな神宮寺くんが、大好きな岸くんに岩橋くん、そしてひと夏を共にした大好きな紫耀くん、廉くん、かいちゃんと&で結ばれることとなった。

こんなに大好きなのに、こんなに最高なのに、と悔しくてたまらなかったMr.King vs Mr.Princeも、鍵の開かない宝箱に一生大切に入れておきたい、わたしの少し遅く来た青春だったPrinceも、みんながみんな形を残したまま想い出を引き連れたまま、ひとつになった。


まだ何も始まっていない、本当かどうかもまだよく分からない、それなのにこんなに嬉しい。
こんなことがあっていいのかと不安になるくらいの。



「僕は正直、家族も友達もとっても大好きだし帰る場所もたくさんあるタイプの人間だけど、帰る場所じゃなくて常にいる場所、いなきゃいけない場所、そしていたい場所はこの場所だけだなって思う。」


JUMPの10周年を迎えた結成日に薮くんはこんなことを言っていた。

本当に本当にすてきなことだと思った。薮くんは10年かけてやっとこういう風に思えるようになったのかどうなのか…は分からないけれど、どれだけ長い年月をかけても、6人みんながこういう風に思えるグループになってほしいと切に思った。完全にエゴでしかないけれど…。
それでも、そう願わずにはいられないくらい。贔屓目に見なくても、無限の可能性を信じさせてくれる6人の未来に懸けつづけたいと、切に思った。






改めて…

2018年春、「King & Prince」としてデビューすることが発表された平野紫耀くん、永瀬廉くん、髙橋海人くん、岩橋玄樹くん、岸優太くん、そして神宮寺勇太くん!

本当に本当に、本当におめでとうございます!!!!!!


ずっとデビューへの想いを口にしていた神宮寺くん、それがやっと叶ったんだなあと思うと同時に、記者会見の場でも物怖じすることなく発言して、笑いを取る神宮寺くんを見て、「やっと」と思える程に尽くしてきた今日までの道のりも、まったく無駄じゃなかったね、嬉しいことも悲しいことも辛いことも、沢山経験してきたであろうJrの期間は全てこの日に繋がっていたんだね、と、嬉しくて誇らしくて、細い線の身体がずっとずっと大きく見えた。









目にかかる少し長い前髪が好きだった。
ほっぺたに縦ふたつ、きれいに並ぶほくろが好きだった。

それだけだったのに。





字面の強すぎる名前が好き。くしゃくしゃに笑うところが好き。すぐにモサモサしちゃう髪質が好き。まゆげが好き。割と顔に出るところが好き。流行に敏感なところが好き。一人っ子なところが好き。怒りがちな煽り方が好き。声が好き。ヴェヴェなじぐラップが好き。ウインクが好き。水素水も好き。缶コーヒー飲める=冷静で大人っぽいと思えちゃうところが好き。もう掛ける髪の毛はないのにしきりに耳に掛ける仕草をするところが好き。チャラ宮寺が好き。キャラのためにそれを作っていたところが好き。国民的彼氏の名を全うしようとしてくれているところが好き。ねんねが好き。今でもねんねの名残を髣髴とさせる服のすそクニクニが好き。クニクニしすぎてしわしわになってる服が好き。優しいところが好き。太陽みたいなところが好き。まぶしくて、ああ適わない、と思わせてくれるところが好き。

圧倒的パフォ力圧倒的演技力圧倒的人間性マグナム級のリアコで誰からも愛される岸くんが好き。可愛らしい容姿に反した芯の強さ、たくさんの場所で「princessを幸せに」と言ってくれる岩橋くんが好き。
仲間でライバルでお互いを信頼し合っているようなWゆうたが好き。世界が崩壊してもずっと隣にいるんだろうなと思わせてくれるじぐいわが好き。兄妹みたいにキャンキャン言い合えるきしいわが好き。
そんなPrinceが好き。

交差点リア恋ブラザーズで先頭に立って主犯となってくれた、かっこよすぎる紫耀くんが好き。周りを見渡せる優しさがあって、至って普通の高めの声の親友(になってほしい今年こそ)廉くんが好き。ひたすらに末っ子でかわいくてかっこよくてポエムで、ゴリゴリなステージング力と愛らしさに溢れるかいちゃんが好き。
Mr.King vs Mr.Princeが好き。
King & Princeが好き。


こんなところには書ききれないくらいの、たくさんの好きをくれる神宮寺勇太くん!
いつも本当にありがとう、そしておめでとうございます!!!



これは、お願いなんていう厚かましいものでは決してないから、ただの独り言だから…書かせてください…!


King & Princeというグループとしても個人としても、もっともっと大きくなってください。クリエや六本木の距離感が幻だったかと思う位の会場を埋めて下さい。売れちゃったね、離れて行っちゃうねとたくさんの人に思わせて下さい。キンプリ?いいよね!と街ゆく誰に聞いても言ってもらえるような存在になって下さい。この先の未来、こんなブログを書いたことをわたし自身が忘れてしまうくらい、神宮寺くん?すごい好きだったな~昔ね!と言えるくらい、本当の意味で国民的彼氏になって下さい。こんなオタクのことは一生知らないで、一生知らないまま、手を伸ばしたら笑われてしまうくらいの遠い遠い、ず~~~~っと遠い世界へ行って、幸せになって下さい。どうかそれまで、やっとスタートラインに立てた神宮寺くんそして6人みんなのことを、もう少し…微力ながら…応援させてください…!





どうか繋いだその手をもう、離さないでね!

恋するわたしは夢心地

例えばアイドルが前髪を切り過ぎたとする。

わたしの好きな人は男も女もすぐに前髪を切りたがるから困る。また前髪切ってる!やらなんで切っちゃうかな…やら前髪の短くなったafterのビジュアルを受けてこちら側は勝手に憂鬱になったり憤慨したりする。



数年前のぴしっと切り揃えられたぱっつんとサイドの姫カットをガチガチに固めて、誰にもそれを触らせなかった完全アンドロイド期のまゆゆこと渡辺麻友さんは、ここ最近でそれらを捨てた。重く隙を見せることのなかった前髪は見事に梳かれて、その毛先は意思があるのかないのか分からない曲線を描きながらくるんと外に流されてしまった。
まゆゆの前髪の乱れを事前に防止する職に就きたいと願ったかつてのわたしの夢は呆気なく散った。

まゆゆは前髪ぱっつん姫カット、所謂「前パツ姫カ」の権化として築き上げたそのイメージと、そのイメージでガチガチになってしまったまゆゆ自身をいただきまゆゆして、新たな渡辺麻友を自らクリエイトしたのだから、「捨てた」と言ってしまうのは完全なるオタク都合であって無慈悲であるのかもしれない。


でも、渡辺麻友さんはその時期を振り返って、「海苔みたいだったよね(笑)、気持ち悪い、今は考えられない」と自らの過去の容姿を黒歴史として揶揄していた(多分去年のパジャマドライブ公演)








辛かった。


完全なる前パツ姫カを貫いてこれがわたし!これがまゆゆ!とこちら側に誇示してくれていたあのまゆゆが、何よりそんなまゆゆを好きだったわたし自身が、もう「まゆゆ」ではない、しかし確かに「まゆゆ」であった渡辺麻友さんという当の本人に完全否定されてしまった。


渡辺麻友さんは結果的に前髪を変えて大成功だし大正解だったと思う。

時代は流れるし、流行りだってある。
何より前パツ姫カな妹キャラでい続けるのには限界があったのかな、と思える位にはあまりにも先輩が消えて後輩が増えてしまったし、前髪に拘ることで築いた一種の「まゆゆ」という虚像に頼らなくても済むくらいの魅力を十分に兼ね備えた綺麗なお姉さんにまゆゆは進化していったから、そうなるのは当然の理かもしれない。

最近のまゆゆは流すよりも、開かずの間だった前髪という襖を全開にして大奥という名の綺麗なおでこをつるんとお披露目するスタイルが多くなった。綺麗すぎる。モンペだからオタクだからそう思うのかもしれないけれど街ゆく人に綺麗だよね?どう考えても綺麗だよね?と聞いて回りたいしその回答は必ずyesであると確信出来る。

まゆゆ1st写真集の帯コメントとして秋元康が送った「大人になんかなるな…」という険しさと才能しか感じないこの一文に今こそヘドバンをかましたい。
秋元康だってきっとそんなことは不可能だと理解はしているけれど、それでも諦めきれない。だって渡辺麻友、いやまゆゆは最高だから。というどうしようもない未練とやりきれない哀愁を「…」の部分に託したのだと信じたい。



余談で済ますにはあまりにも長い余談だけれど、わたしはこれ程にも髪型に対しての拘りが強い。
というよりも、メディアや媒体によって呈示されるその人の印象や好きなもの嫌いなもの、異性のタイプ、結婚願望などと言ったその人発信の個人情報を丸呑みにして、自分なりの型に、自分なりにその人を成形して、自分だけのその人を作り上げてしまうから、その型にある情報の中から少しでも違う情報が発信されてしまうと、あの時こういったのにどうして?あのときこう言った〇〇くんが、〇〇ちゃんが好きだったのに、どうして?と勝手に裏切られた気持ちになる。人間なんだから思考や嗜好は変わるのに。好きなものが嫌いになることなんて当たり前にあるし、嫌いにならなくてもその好きを上回る別の好きが出来るかもしれないし、永遠なんてないし、そもそもその人の本質的な部分なんて何も知らない、分からない、知る術なんてないのに、そんなことは当たり前なのに、アイドルという存在の距離感がぼんやりしていて曖昧になって、分からなくなる。ただのオタクのくせに。オタクでしかなくて、それ以下でも以上でもないくせに。偉そうに。


「勝手に好きになって、まとわりついて。なのに、自分が思っていた人間像と違っていたからといって、相手を傷つけてもいい。そんな理屈が通ると、本気で思っていて?」


小笠原祥子さまの言葉はいつだってみっともなく積み上げられた自尊心を粉々にしてくれる。握手会で「ねえ俺いくつに見える?」と剥き出しの自己顕示欲をアイドルにぶつける種のオタクよりもよっぽど厄介で、悲しくなる。




アイドルは偶像。

でも自分の思うままの欲求で塗り固めてしまうと、偶像であったはずのそれが瞬く間に虚像になって、その虚像に自分自身が押しつぶされることになる。そんな当たり前のこと分かっているはずなのに、都合よく盲目になるのがオタクという生き物だから…仕方ない。「応援」なんていう域はとっくに越えて、わたしの体内の奥底にあるそれはいびつで真っ黒な「依存」に姿を変えているけれど、仕方ない。オタクの数だけ想いがあるしオタクを数だけ応援スタイルがあるしそれが重くても軽くても不純でも純粋でも…仕方ない、と言ってしまったらモラルや秩序に欠けるからそれだけは、言えない気がしている。今更何を…という話だけれど、自戒のため…。


アイドルをひとつの個としてみるか大きなコンテンツのひとつとして見るかは言ってしまえば自由なわけで誰にも強制は出来ないけれど、だからこそ、何よりも楽しく何よりも気楽に、けれど用法用量をきちんと守った計画的な推し事をわたしはしていきたい2017年です。

やっぱり…かわいいいよ〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!