メメント・モリ

コーヒーに入れると、まろやかになるでしょ。

いちばんぼし

星。


彼がくるりと舞うたび、ぴょんと跳ねるたび、零れ落ちるものは星だった。

きらきら、ちかちか、まぶしくて見えないほどにそれをまき散らす、その中心でにっこりと笑う彼もまた、いや彼こそが、星だった。




はじめて彼を見たのは、2016年のジャニアイだった。

なんだかぽーっとしている子がいる…
双眼鏡の丸の中に飛び込んできた彼の印象は良いわけでも悪いわけでもなく、ただそれに尽きるものだった。

ぼーっと、ではなく、ぽーっと。

「よくわからないけれどここまできてしまいました、でもいっしょうけんめいがんばります(でもほんとうはよくわかりません)」

そんな感情が思わずにじみ出てしまっているような、いやでもそれにしては飄々としているような…
とにかく一目見ただけでは掴めない彼の、シースルーな前髪とすっと伸びたアビシニアンみたいな目がやけに脳裏に張り付いた。

みんなはワイワイとLGTEを歌いとっくに地球へ戻ってきているはずなのに、わたしだけ宇宙へ取り残されているような、そんな感覚だった。

その不思議な感覚はわたしに「ステフォ1枚ください」という言葉を発させていた。

(まあこれは参考資料だから)
そんないつも通りの訳の分からない言い訳を胸に、帝国劇場を後にした、2016年の冬。


そこから約3年、2019年の今現在に至るまで、彼を取り巻く環境は何かとせわしなかった。
まだ首の座っていないピンク色の子が加入してくれて、彼は最年少ではなくなったし、その後グループ名は2回も変わった。

はじめてのドラマ出演は彼にとって小さくはない転機だったように思う。
それからしきりに「もっと演技の仕事をしてみたい」という彼にとって、それは本当に貴重で大切な経験になったんだろうなあと思うたびに、自分のことのように嬉しかった。


この年になって本当に実感するけれど、自分がやりたいと思うことをきちんと見つけられる人は人として強いと思う。その意欲がその人に努力をさせるし、経験を呼ぶし、世界を広げる。それが思うようにいかなかったとしても、誰も責めることは出来ないしその行為自体が自分と自分との対話なのだと思う。なぜなら、他の誰でもない「自分が」やりたいと思ったことだから。それがまた、その人を強くする、と思う。

そんな大それたことではないかもしれないけれど、希望を胸にそんなお話をする彼がまぶしくて可愛くて。
思えばその頃からだったのか、彼の周りをくるくる、きらきら、取り囲むように舞う星が見えるような気がした。


ステージの上に立つ彼は数年前のジャニアイの時とは全く違い、しっかりと地に足をつけて立っていた。
地上から3ミリは浮いているような気がしたその身体は、彼の意志をもってきちんとそこに存在し、そしてやはり星をまき散らしていた。

パフォーマンスでは必要以上に笑顔を見せることはない印象だけれど、メンバーと目があった時、お客さんに向けてファンサをする時、その瞬間ごとに、切れ長の目をふにゃ、と緩ませて笑う彼。

そうやって笑う彼はマシュマロだった。子うさぎだった。キティちゃんだった。

世の中のありとあらゆる「かわいい」を形用するすべてのものに成り代われるような、そんな永遠を感じた。

そうやってふにゃふにゃと笑う度に、わたしの体内のどこかに存在するかわいさという概念の首根っこをぺろりと舐められているようだった。かと思えば消えない歯形を付けられているような、そんな感覚だった。
よくホテルのブッフェなんかに置かれているチョコレートファウンテン、彼のかわいさに触れるたび、わたしの脳みそは完全にそれだった(突然のスプラッタ)


わたしは基本的に「かわいい」人、「かわいい」を備えている人が好きで、
中でも彼のそれはとても知念侑李くんに似ているな、と思った。

ただ、本人の中の「かわいい」の捉え方はきっと180度違う。
似ているのは、こちら側に与える「かわいさ」の圧だ。


わたしの好きなひと、神宮寺勇太くんを比較対象として例に挙げる。

神宮寺くんの「かわいい」は本当にじんわりと、優しく、五臓六腑に染みわたるものだと思う。
(なに言ってるのか分からないと思うけれどわたしにだって分からないのでしばしお付き合いください)

愛用のねんねも、時にバブ返りすることも、「仲良しじゃないょ、だいちんゆう」も、時に見せるかわいいかわいいじんぐうじゆうたくん(4さい・ぞうさん組)なお顔も、全てが優しくてほんのり甘くて、その圧は圧と呼ぶに値しないくらいにゆるやかなものだ。

「神宮寺くんってばもう!!本当にかわいいんだから~~~~!!!!(大声)(メガホン使用)」

そんなことを叫びたくなるこころの余裕がわたしにあるくらい、神宮寺くんの「かわいい」はブラックコーヒーにいれる角砂糖ひとつぶん、そんなほんのりしたものだ。(神宮寺くんはブラックコーヒー飲めるもんね角砂糖なんていらないもんねごめんね)



知念くんそして彼の「かわいさ」は、そういう優しくて穏やかなものではない、気がしている。

一言で言うなれば「怖い」のだ。


かわいい。かわいい。ただひたすらにかわいい。それに尽きる。
そうやって「かわいい」に埋もれていることは一見幸福のようだが、問題なのはそれが底なしだというところだ。

潜ってもかわいい、底に足をつけたくてもかわいい、息が苦しくて水面に顔を出したいのにかわいい…なんということでしょう(知らんがな)そうして溺れた先にあるものもやはり「かわいい」なのだ。

ここまで行くともう、「かわいいはもう、あの、もうじゅうぶんです!!」となるし、早く息を吸わないとしんでしまう、そう思うのに、彼らの「かわいい」は容赦なく「かわいい」のわんこそばの替え玉を持ってにこにこしているのである。

怖い。どこまでいってもかわいい。怖い。彼らの「かわいい」にはあくまで「かわいい」を根底に秘めた暴力性が伴うのだ。

ひいて言えば、彼に関しては「かわいい」でわたしを海に沈め、さらには振りまくその星でわたしを地に埋め、容赦のない「かわいさ」を星に乗せてわたしを空まで飛ばしてくれる。


そこまで来るともう、「怖い」「暴力性」なんていう物騒な言葉を使ってしまった「かわいい」も、たちまち「すき」になってしまうのだ。単純明快な脳みそはみるみるうちに溶けてチョコレートファウンテンに流され、思うがままにその循環機能をフル回転させた。そうして、遠くで星を零すマシュマロをただただ眺めさせた。

どうかマシュマロが、この澱んだ濁流のようなチョコレートに触れることがありませんようにと切に願った。



そして今年の春、平成から令和へと時代が切り替わるその一週間、わたしはシアタークリエの赤い座席に格納されていた。

そこで目にした彼もやっぱり、例に漏れず、もう、ただかわいかった。

あまりにも匂わせが過ぎるので大体の人は何となく想像できていたんじゃないかと思う彼のソロは、メンバーに助言を貰いながら、とにかくオシャレにこだわりたくて、そういった自分だけの世界を作りたいと思って選んだそう。

はじめてのソロ。彼だけではなくて、メンバー皆がそれぞれに思い思いの自分を込めて、こだわりを詰めて、きっと大切に準備してきたであろうことが、ひしひしと伝わってきた。

ステッキを持ちサスペンダーと蝶ネクタイでしゅっと決めた彼は、甘くて澄んだ声を歌に乗せ、ステッキをくるくるしたと思えば、かなり序盤から光らせていた汗をきらきらさせながら、「キャラメル」や「ポップコーン」、発しただけでもう糖分過多な言葉を声に乗せてそこに存在していた。


くるくる、きらきら。


あ~~~またこの瞬間がきてしまった、と身構えるも、ペンラ1本握りしめただけの軽装備なわたしにこの空間はあまりにも甘く、そしてあまりにも、かわいすぎた。土石流だった。ようやく七夕を終えてあとは静かに流れるだけで1年を過ごす予定であっただろう天の川に土石流の如く星を降らせ、あっという間に氾濫した。


こんなにかわいくてあまくてかわいくて、こんなことがあっていいの。


一生懸命考えて、きっと試行錯誤して、そうして作り上げた彼だけの世界。
それがありがたくも、あくまでわたし個人だけにとっての嗜好と合致したこともそうだけれど、彼が、自分自身で「こういうものがやりたい」と選んでそれを見せてくれたことが何より嬉しかった。





翌日。

わたしは浅草で呑気にタピオカを吸っていた。

不穏な空気が流れていた。嫌な予感がした。




そのまた翌日。

嫌な予感というのはどうしてこうも的中してしまうのか。

彼のソロはオールカットされていた。



カット対象となったオシャレでかわいいソロ曲の代わりに追加されていたのは、ソロのダンスステージだった。

汗で濡れたパーマの少し残った髪をかきあげ、ワイシャツ1枚を纏っただけの上半身はあっという間に彼自身によって露わにされてしまった。袖を丁寧にくるくると巻き上げたかと思えば、ふう、と息を吐いてまた、髪をかき上げた。
(なんか官能小説を書いている気持ちになってきて大丈夫ですかねこれ申し訳ございません)


「かわいい」はもう、そこには存在しなかった。
「キャラメル」も「ポップコーン」も、なかった。

それでも諦めきれず、脳内に「キャラメルとポップコーンはありますか?」と問いかけるも「そこになければないですね」と返答が返ってくるだけだった。ダイ〇ーだった。
でも、それが事実なのだ。わたしの脳内のダイ〇ーは「そこになければ、」と自分自身に対して目で見て確かめろそれが事実だという断言とも取れる判断をこちらに委ねてきたが、こちとらもうこの数分間彼しか見てないのである。そんなことはもうとっくに分かってしまっていた。


でも。

「かわいい」を完全排除したステージに立った「かわいい」彼は、「かわいい」に置いてかれてしまった迷子の「彼」なんかではなかった。いわゆる「かっこよさ」や「セクシー」さ、長身と白い肌を生かした系統の違う「おしゃれ」さを纏って、彼はそこに立っていた。


きっと彼は、ずっとそうだった。


きっとわたしは、彼は「かわいい」いつまでも「かわいい」、「かわいい」は彼にずっとついて回るもの、そんな勝手なイメージとただの願望を型にはめてでしか彼を見ていなかったのだと気づかされた。

切れ長のクールな目はこんな雰囲気にこそ映えると思った。すらりと伸びた手で指揮者のような動きをする彼にはパガニーニが似合う、と思う位には耽美的だった。

「かわいい」がすきで、「かわいい」の居心地がよくて、それならばずっと「かわいい」でいてほしくて。
そんなわたしには気づけなかった、気づこうとしなかった彼がそこにいた。


こんなにもかっこよくて、こんなにもうつくしくて、きっと彼は、ずっと、そうだったんだ。



もうなんだかそこからは早かった。
彼の「かっこいい」を認識した途端に、もうとてつもなくどうしようもなくかっこよくみえて、いつどこの誰としたのか思い出せない初恋と似たものを感じた。

簡潔に言うと照れた。(笑)
かっこよすぎて恥ずかしくてもう仕方なかった。(思春期か?)
しかも、かっこいいだけじゃなかった。かっこいいの片隅にチラつく妖艶さは見て見ぬふりができなかった。しっとりとした仕草からはその容姿も相まって嫋やかさすら感じた。


能天気に星に埋もれていたわたしに降り掛かってきたこの理不尽は、結果としてわたしに最大級の革命を引き起こさせてくれた。

そして、それは後に知ることになったその経緯を見る限り、そしてそれが「すごく自信になった」と言う彼にとっても、そうであったのではないかな、と思う。

「かわいいよりかっこいいをやったほうがいいよ」
「男っぽいところを見せたほうがいいよ」

そんな助言が今回の事の発端となったそうだけれど、やっぱり事情も何もしらない一生受け身側のわたしとしては、(やっぱり彼がやりたいと思ったものをやって欲しかったはじめてのソロでどんな気持ちで準備してきたんだろうと勝手にその気持ちを推し量って勝手に悲しくなった完全版が見れたのが初日のたったの1公演なんて悔しすぎたあの透き通った美声を一切発させないなんてそんなことある?うえ~~~~~んみたいな)色々な恨みつらみを覚えてしまったのは事実であって…。

けれど、それでいて、「アドバイスを貰えるなんて幸せなこと」、だなんて言えるのは、素直に丁寧に努力を積み重ねることの出来る彼の優しさや強さそのものだなと思った。

例え「かわいい」も「かっこいい」も、何もかもを無くしてみたとしても、彼のそういうところがわたしはすきで、だいすきだと思った。



そして、「かわいい」でソートを掛けて絞り込んだ彼しか見れなかったわたしに対して、「かわいい」をまるごと排除することで、「かわいいだけじゃないんだよ」「もっとすごいんだよ」と、新たな彼の世界や彼自身を発見させてくれたおじいちゃんはやっぱりすごいなあと思ったし、すべてが彼の可能性にかけた未来への投資だったのだとしたら…こんなに愛に満ちた人はいないなと思った。おじいちゃんの行ってしまった13月がとてつもなく遠くても、どれだけ離れていたとしても、絶対絶対一緒にオリンピックを見ようね。



かわいくてかっこよくてうつくしくてセクシーで、既にこんなに兼ね備えている彼はこれからもっとどれだけ大きくなって、どれだけいろいろな世界を見せてくれるんだろう。



これから来る夏、そして巡る季節とともに移り替わるであろう彼のことをこれからもどうか見続けていられますようにと願った。

そして彼がなりたいと思うもの、欲しいと思うもの、やりたいと思うもののすべてが叶う、そんな幸福の元にあり続けますようにと切に願った。




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彼がまた、ふにゃ、と笑った。金平糖みたいな星がひとつ、ころんと落ちた。