メメント・モリ

コーヒーに入れると、まろやかになるでしょ。

恋するわたしは夢心地

例えばアイドルが前髪を切り過ぎたとする。

わたしの好きな人は男も女もすぐに前髪を切りたがるから困る。また前髪切ってる!やらなんで切っちゃうかな…やら前髪の短くなったafterのビジュアルを受けてこちら側は勝手に憂鬱になったり憤慨したりする。



数年前のぴしっと切り揃えられたぱっつんとサイドの姫カットをガチガチに固めて、誰にもそれを触らせなかった完全アンドロイド期のまゆゆこと渡辺麻友さんは、ここ最近でそれらを捨てた。重く隙を見せることのなかった前髪は見事に梳かれて、その毛先は意思があるのかないのか分からない曲線を描きながらくるんと外に流されてしまった。
まゆゆの前髪の乱れを事前に防止する職に就きたいと願ったかつてのわたしの夢は呆気なく散った。

まゆゆは前髪ぱっつん姫カット、所謂「前パツ姫カ」の権化として築き上げたそのイメージと、そのイメージでガチガチになってしまったまゆゆ自身をいただきまゆゆして、新たな渡辺麻友を自らクリエイトしたのだから、「捨てた」と言ってしまうのは完全なるオタク都合であって無慈悲であるのかもしれない。


でも、渡辺麻友さんはその時期を振り返って、「海苔みたいだったよね(笑)、気持ち悪い、今は考えられない」と自らの過去の容姿を黒歴史として揶揄していた(多分去年のパジャマドライブ公演)








辛かった。


完全なる前パツ姫カを貫いてこれがわたし!これがまゆゆ!とこちら側に誇示してくれていたあのまゆゆが、何よりそんなまゆゆを好きだったわたし自身が、もう「まゆゆ」ではない、しかし確かに「まゆゆ」であった渡辺麻友さんという当の本人に完全否定されてしまった。


渡辺麻友さんは結果的に前髪を変えて大成功だし大正解だったと思う。

時代は流れるし、流行りだってある。
何より前パツ姫カな妹キャラでい続けるのには限界があったのかな、と思える位にはあまりにも先輩が消えて後輩が増えてしまったし、前髪に拘ることで築いた一種の「まゆゆ」という虚像に頼らなくても済むくらいの魅力を十分に兼ね備えた綺麗なお姉さんにまゆゆは進化していったから、そうなるのは当然の理かもしれない。

最近のまゆゆは流すよりも、開かずの間だった前髪という襖を全開にして大奥という名の綺麗なおでこをつるんとお披露目するスタイルが多くなった。綺麗すぎる。モンペだからオタクだからそう思うのかもしれないけれど街ゆく人に綺麗だよね?どう考えても綺麗だよね?と聞いて回りたいしその回答は必ずyesであると確信出来る。

まゆゆ1st写真集の帯コメントとして秋元康が送った「大人になんかなるな…」という険しさと才能しか感じないこの一文に今こそヘドバンをかましたい。
秋元康だってきっとそんなことは不可能だと理解はしているけれど、それでも諦めきれない。だって渡辺麻友、いやまゆゆは最高だから。というどうしようもない未練とやりきれない哀愁を「…」の部分に託したのだと信じたい。



余談で済ますにはあまりにも長い余談だけれど、わたしはこれ程にも髪型に対しての拘りが強い。
というよりも、メディアや媒体によって呈示されるその人の印象や好きなもの嫌いなもの、異性のタイプ、結婚願望などと言ったその人発信の個人情報を丸呑みにして、自分なりの型に、自分なりにその人を成形して、自分だけのその人を作り上げてしまうから、その型にある情報の中から少しでも違う情報が発信されてしまうと、あの時こういったのにどうして?あのときこう言った〇〇くんが、〇〇ちゃんが好きだったのに、どうして?と勝手に裏切られた気持ちになる。人間なんだから思考や嗜好は変わるのに。好きなものが嫌いになることなんて当たり前にあるし、嫌いにならなくてもその好きを上回る別の好きが出来るかもしれないし、永遠なんてないし、そもそもその人の本質的な部分なんて何も知らない、分からない、知る術なんてないのに、そんなことは当たり前なのに、アイドルという存在の距離感がぼんやりしていて曖昧になって、分からなくなる。ただのオタクのくせに。オタクでしかなくて、それ以下でも以上でもないくせに。偉そうに。


「勝手に好きになって、まとわりついて。なのに、自分が思っていた人間像と違っていたからといって、相手を傷つけてもいい。そんな理屈が通ると、本気で思っていて?」


小笠原祥子さまの言葉はいつだってみっともなく積み上げられた自尊心を粉々にしてくれる。握手会で「ねえ俺いくつに見える?」と剥き出しの自己顕示欲をアイドルにぶつける種のオタクよりもよっぽど厄介で、悲しくなる。




アイドルは偶像。

でも自分の思うままの欲求で塗り固めてしまうと、偶像であったはずのそれが瞬く間に虚像になって、その虚像に自分自身が押しつぶされることになる。そんな当たり前のこと分かっているはずなのに、都合よく盲目になるのがオタクという生き物だから…仕方ない。「応援」なんていう域はとっくに越えて、わたしの体内の奥底にあるそれはいびつで真っ黒な「依存」に姿を変えているけれど、仕方ない。オタクの数だけ想いがあるしオタクを数だけ応援スタイルがあるしそれが重くても軽くても不純でも純粋でも…仕方ない、と言ってしまったらモラルや秩序に欠けるからそれだけは、言えない気がしている。今更何を…という話だけれど、自戒のため…。


アイドルをひとつの個としてみるか大きなコンテンツのひとつとして見るかは言ってしまえば自由なわけで誰にも強制は出来ないけれど、だからこそ、何よりも楽しく何よりも気楽に、けれど用法用量をきちんと守った計画的な推し事をわたしはしていきたい2017年です。

やっぱり…かわいいいよ〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!